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制圧に挑んだ60年余 結核で死なない世界を目指して

かつて結核は世界で猛威をふるい、日本においてもおびただしい数の人命を奪ってきたが、1951年の結核予防法の制定、および化学療法の普及に伴い大きくその数を減らし、2002年以降、日本の結核死亡率は10万人に対し2人以下の水準となっている。しかし、日本と世界の結核の制圧を目指し、半世紀以上第一線で心血を注ぎ、数々の功績を残してきたエキスパートは「結核は治し得る病気になった、でもまだ治る病気にはなっていない」と語る。

結核との出会い、自身の専門の病気で肺を切除する運命に

1946年、東京大学医学部在学中に結核研究会に参加したことをきっかけに、島尾忠男は結核に対する知識と実習を求め、結核予防会第一健康相談所の門をたたいた。人口10万人に対し200人前後が結核で命を落としていた時代である。

群馬の農村という公衆衛生の現場で、また第一健康相談所で、島尾は実習に明け暮れた。そんな中、集団検診の手伝いとしてデータを整理している際に、ツベルクリン反応の陽性率を数式で表すことができるのを発見する。こうして疫学研究に目覚め、その面白さにのめりこんでいった。そして卒業して医師となった1949年、島尾は当然のように結核予防会での勤務を開始する。

ところが1950年末、自身が結核に罹患(りかん)してしまう。翌年当時の結核予防会結核研究所附属療養所(現複十字病院)に入院することになり、2年10カ月の療養生活が始まった。この間局所麻酔下に胸郭成形術にて右肋骨(ろっこつ)を8本切除、そして1952年には右肺上半分も切除した。翌年に抗結核薬として使用されるようになったイソニアジドを服用することで、結核菌が陰性化しようやく復職がかなったが、自身が専門とする病気との死闘の経験はその後の人生の大きな礎となった。島尾の専門は疫学研究であるが、結核を患った者の悩みや苦しみを肌で知っている医師として、臨床は、ことに外来診療は90歳を過ぎた現在もずっと続けている。

スウェーデン留学のお土産

スウェーデン留学中の様子の画像

スウェーデン留学中の様子(写真右)

1953年に結核で薨去(こうきょ)された秩父宮親王殿下が日本スウェーデン協会の名誉総裁であった(罹患後は秩父宮妃殿下が継承されていた)ため、日本の結核問題を重くみたスウェーデンの協会関係者らが、年間1名の医師をスウェーデンへ留学させる奨学制度を設立した。第1回の留学生として復職後の島尾に白羽の矢が立ち、1955年に1年間かの地に留学の機会を得る。島尾の目が世界に向けて開かれる、最初の大きなきっかけであった。

20世紀初頭にインフルエンザが大流行した後と、1960年代の化学療法の進歩で結核患者数の減少が一気に加速したヨーロッパ。対結核先進国の対策を学び、さらにスウェーデンは整った制度を持つ社会福祉先進国でもあったので保健診療全体を学ぶことができた。そんな島尾がスウェーデンから持ち帰った画期的なお土産がある。理学療法だ。

スウェーデンでは結核病床を行き交う理学療法士たちが、術後のケアについて手術前から患者に指導をし、体が変形するのを最小限に食いとめている。安静第一の一辺倒であった日本の術後診療に導入するべく、島尾はスウェーデン結核予防会刊行の手引書(スウェーデン語)の翻訳許可を得て、ジェノバから横浜まで帰路54日間の船旅の間に翻訳を行い、帰国後『肺機能訓練療法』として紹介した。これにより、日本において術後患者の社会復帰が飛躍的に容易になったのである。

世界の結核根絶を目指して、国際研修コースの導入

島尾が残した数多くの功績の中でも、ひときわ光るのが結核研究所の国際研修コースである。

1954年コロンボ計画に加盟した日本はようやく援助国となり、翌年から途上国への技術支援を開始する。島尾も1960年に結核専門家として当時のアラブ連合共和国(現在のエジプトとシリア)へ派遣されるなど、早くから国際協力に身を投じてきた。そして1962年に現在の国際協力機構(JICA)の前身である海外技術協力事業団(OTCA)が設立されたのをきっかけに、途上国からの研修生を受け入れる結核対策の国際研修コースが結核研究所に開設されることになった。

半世紀以上経た現在も続いている本制度では、97カ国から2237名(1963年-2014年5月現在)を受け入れている。これだけ多くの医師や結核対策従事者が結核について学ぶために世界中から来日し、帰国後に国家の中枢で結核対策に取り組んでいる意義は大きい。卒業生の中からは保健大臣も3人輩出している。島尾が勤める結核予防会の顧問室には、日本が培った人脈の証しである研修卒業生の数が記載された世界地図が貼ってある。人材養成はこれからもまだまだ必要だと、島尾は繰り返す。

国際舞台で結核問題に光を当てる

1987年から90年にかけ、島尾は世界保健機関(WHO)の執行理事を務めた。その間に行われた事務局長選挙において、中嶋宏氏が日本人で初めての事務局長に選出される。

当時WHO本部にあった結核課には、課長と技師1名の計2名しかいなかったが、1989年に日本人の古地新氏が課長に就任し、氏による強力な推進により世界の結核対策体制が強化された。その代表ともいえる成果にWHOが1994年に打ち出したDOTS戦略がある。結核対策を国の優先施策とし、薬剤配布の仕組み確立、ヘルススタッフの直接監視下における服薬、統計と評価、といった戦略を世界規模で推し進めた結果、結核はみるみるその数を減らした。

なお、日本の政府開発援助(ODA)は当時アメリカに次いで世界2位(1991年から2000年までは世界1位)。そしてWHOの事務局長に中嶋氏、執行理事に島尾が就任していたために日本政府からの財政的サポートも得ることができた。全世界の結核問題に光が当てられた背景に、島尾ら日本人の活躍は大きい。

結核を治る病気へ これからに対する期待

長年の戦いを経て、結核は急速にその数を減らしはしたものの、いまだ制圧されていない。日本が行ってきた対策は初めて感染する患者を中心に1年間に10%ずつ死亡率を減少させ、結核を押さえ込むのに功を奏してきた。世界にはWHOが指定した結核高まん延国(患者数の多い国)はまだ22カ国もあるが、それらの国は日本の経験をもとに対策をとれば高い確率で急速に結核を減らせると考えられている。

ところが、結核菌は菌にとって条件が悪くなると休眠して生き延びる性質がある。代謝をしないために薬も効かない。日本の結核による死亡率が先進国の中でもまだ高い理由は、現在日本における結核死亡者の中心が、年齢を重ね免疫が落ちてきたところに、保持していた休眠菌が目覚め発病してしまう高齢者だからである。これらの休眠菌を制圧する画期的な対策は見つかっていない。

島尾は語る。「結核は感染症なのでいつの日か制圧はできると思う。しかし現在の治療期間は6カ月、自身が経験した2年10カ月に比べれば短期ではあるが、それでもまだ長い。結核は治し得る病気にはなったが、治る病気にはなっていない。休眠菌対策とともに、強力な治療法の開発・研究、そして人の育成は当然続けなければならない」と。(取材日:2015年6月16日)

見直される日本式結核対策

検診車の活躍する現場での国際研修の画像

検診車の活躍する現場での国際研修

現在、結核対策にあたりWHOはPublic-Private Mix(PPM)を提唱している。公的機関と民間が一緒になって患者の治療を行うというものであるが、日本は戦後すぐにこれを導入している。

1951年の結核予防法制定当初からすでに、日本では開業医中心の結核診療が行われていた。同時期に開始された結核実態調査(第1回は1953年、以後5年ごとに合計5回実施)の結果を反映し、健康診断の対象を30歳以下から全国民に広げる、健康診断と予防接種を全額公費負担とする、など、結核予防法は数度にわたり改正されたが、1961年の改正により患者登録制度の整備と入院に対する国庫補助が拡大されたことにより、感染から治療完了まで一貫した結核対策の体系が完成した。

エイズのまん延に伴い結核感染の実態把握が難しくなったことにより、実態調査の手法や民間の開業医への協力要請など、日本が行ってきた仕組みが、いま全世界で再評価されている。

結核研究

島尾 忠男(しまお ただお)

1924年東京生まれ。48年東京大学医学部卒。49年に結核予防会に入職後、75年結核研究所所長、90年理事長、94年会長、2000年に顧問となる。現在、公益財団法人結核予防会評議員会会長および、公益財団法人エイズ予防財団代表理事を務める。また、国際協力事業団海外医療協力委員会委員長、国際結核予防連合理事および評議会議長、WHO執行理事をはじめとする政府および国際機関のけん引役を歴任。

「結核」の概要をみる-Yahoo!ヘルスケア

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